葛西が部屋に入ってくるのが見えると私はげらげら笑いながら手元のクッションを投げた。直撃した。

「ずいぶんご機嫌なようですね。詩音さん」

 私はそんな当たり前なこと聞くなと思いながら大きめのバッグを肩にかける。中身はお弁当や水筒だ。

「今日も雛見沢ファイターズさんの応援ですか」

「はい。今日はお姉には一日中隠れとくようお願いしときました。……ああ、きっと疲れて帰ってくるだろうしお弁当買っといてくれません? お金はテーブルの上にありますから」

 ささっと立ち上がりドアノブに手をかける。そこから先は魅音として行動しなければならない。自分にそう簡単に言い聞かせると外に飛び出した。

 気持ちのいい晴天に恵まれた。空気がいつもより澄んでいるように感じるのは昨日が雨だったせいだろう。

 私は少し心配になり足元に目を向ける。……大丈夫だ。少し水溜りもあるが、幸い興宮小学校のグラウンドは水はけがいい。今日の天気と相殺しても、なかなかの試合日和といえるのではないだろうか。

 中止なんてことになっては困る。今日もきょうでお姉には無理言って変わってもらってるんだから。それに相手は宿敵の興宮タイタンズだ。悟史くんも今日のために気合入れて練習してたみたいだし、成果を見届けてやらないとね。

 もう少しで小学校ってところで見覚えのあるユニフォームを着た後姿が見える。私は零れる笑みを堪えながらそっと彼の後ろに近づいていく。ご多分に洩れずぼうっとしているので気づいてないようだ。

「おはよう! 悟史くん」

「わあ、驚いた。おはよう、魅音」

 いつもながら本当に驚いてるかわからないような反応だ。試合前で緊張してるかと思ったけど、案外落ち着いてるのかな。ちょっといじわるをしてみたくなって発破をかけてやることにした。

「あ、そういや今日は勝ったら監督がバーベキューをご馳走してくれるってよ。こりゃ負けられないねえ?」

「……むう、勝ち負けのことはあまり考えないようにしてたのになあ……緊張してきちゃうじゃないか」

「くっくっく! ほんと悟史くんは本番に弱いからねえ。でも大丈夫、あんなに頑張ってたじゃない」

 悟史くんはふっと優しく微笑むと「ありがとう」と言って……いつもみたいに急に頭を撫でてきた。その優しい手の暖かさに、私の胸がほんのり熱くなると顔から耳の先まで赤くなってしまう気がして恥ずかしくなり俯いてしまう。怖いもの知らずで生きてきた私もこれにはどうしても勝てない。目を閉じながら耐えるしかないのだ。

「や……め……もう、なんで頭撫でるかなあ」私がそういうと彼は笑いながら解放した。

「あはは。ん、着いたよ。もうみんな集まってるみたいだね」

 視線をグラウンドに移すと、私たち以外は揃っていたようで備品の準備に忙しそうだった。三塁側ではタイタンズの選手がランニングを始めているようだ。威勢のいい掛け声と統率のとれた動きからこの試合への気合が感じられる。

「おはようございます悟史くん、園崎さん」

 声をかけてきたのは入江監督だった。いつもながら爽やかな笑顔だ。あいさつを済ませると、悟史くんは準備の手伝いに行かされたようだ。私も同行することにする。することもないしね。

 グラウンドにはわずかだが水溜りが出来ていたりする。それを大きめのスポンジに染み込ませ、取り除く。内野に比べると外野は水溜りが少々多いようだ。両チーム数名の選手が、かり出されている。

「わあ……っとと。でこぼこして危ないね」

 悟史くんが躓いたらしい、えへへと照れくさそうに頭をかいていた。はあ、相変わらず庇護欲をそそるねえキミは。私がそういうと、悟史くんはからかわれていることに気づいたらしく、不満そうにむう……と正体不明のつぶやきを残すのだった。

 監督の口からスタメンが発表される、いよいよ試合開始だ。

「いつもどおり、勝ち負けにこだわらない私たちの野球を楽しみましょうね」

 はいとチームメイトが監督に答える。これがわが雛見沢ファイターズの、いや入江監督の一貫した方針だ。たるんでると言う人もいるが私は概ね賛成だ。まあこれでいつもの発作がなければ素晴らしい人間なんだろうけれども。

 まずは興宮タイタンズからの攻撃で始まる。ベンチや応援に駆けつけた保護者の皆さんの声援が飛び交っていた。

 鋭く非常に伸びる球がミットに次々と吸い込まれる。今日の投手は絶好調なようでなかなか相手にバットを振らせない。一度ヒットを打たれるもチャンスを生かせず一塁残塁でチェンジとなった。今日はいけるんじゃない? なんて軽口が飛び交っていた。雰囲気もいいし、今日は勝てるかもしれないと私も素直に思う。

 さらに、こちら側の一球目はいきなり快音と共に飛び出した。最高のスタートだとベンチからも歓声が沸く。その後1アウトを取られ悟史くんが回ってきた。後ろ姿からは緊張している様子はないが大丈夫だろうか。

 投手のしなやかなフォームから繰り出される白球をぎりぎりまで引き込むと素早くバットで叩き込む。目が覚めるような快音と共に左中間を抜けていく。思わず感嘆の声があがった。これがタイムリーとなり一点先取。その後ヒットが続き更に一点が入る。過去ないほどの快進撃だ。

「おめでとう! この調子で頑張れ!」その後チェンジとなりベンチに戻ってきた悟史くんに声をかける。その声に彼はありがとうとよく通る声で答えると守備に向かう。

 立ち上がり非常に快調。こちらの士気もぐんと上がり気合の入った守備の掛け声を背に受け、次々と投げ込まれるボール。空気に飲まれてしまったタイタンズの打者はまともにバットに当てることもできないようだ。

 二回裏、こちらの攻撃がまわってくる。このままどんどんいこうと盛り上がるベンチを尻目に、タイタンズでは投手の交代が行われているようだ。たった一回しか投げずにベンチに引っ込ませるのは少し早すぎやしないか。

「一回に二点とられただけなのに交代とはずいぶん厳しいですねえ。投手の方がけがでもしていたのでしょうか」

 監督も相手チームながら納得のいかない采配のようだ。そしてベンチから交代選手が出てくる。すると数人が素っ頓狂な声をあげた。

「あ、あの人、テレビで見たことありますよ!」

 何事かわからなかった私は悟史くんにたずねる。

「悟史くん、あの人知ってる?」すると悟史くんも驚いているよう様子だった。

「ああ……県立大島って高校知ってる? 野球がめちゃくちゃ強くて甲子園の常連校なんだよ。そこで未来のエースって今から期待されてる選手らしいよ」

 どうも話によると昔タイタンズに所属していたことがあり、たまたま見物していたようだ。しかし、こちらの劣勢とわかると加勢しようとしてきたわけだ。でもそんなすごい人が参加なんかしたら……。

 破裂音にも似た音に驚きグラウンドに視線を戻す。見たことないような豪速球だった。いや、見たことはあったはず……あれは、ミットに強烈な音を立てながら収まる豪速球は、まさにブラウン管の向こうで見る投手のそれだった。

「えっと、ちょっと待ってよ。あんな球打てるわけ……」

 それはみんなも胸中で感じているようだ。明らかに空気が変わっていた。次々に無慈悲に投げ込まれる白球になすすべもない様子だ。――なんなのよ、いきなり出てきて。それも小学生も出てる試合にいい年した高校生が出しゃばって……!

 そのままこちらの攻撃は終わってしまった。守備に向かうみんなの背中からは活気が薄れ、盛んにあがっていた声も失われえてしまった。単身、打者に立ち向かう投手にとって仲間の声援はなによりも武器になる。調子のくずれたピッチング、守り。こちらは一点を失ってしまった。

「ちょっと監督! あんなのありなんですか。いくらなんでも大人気ない!」

 私は苛立ちを監督に向ける。なんなら私が抗議してやるとも言ったが、監督は力なく微笑みを返す。

「お気持ちはありがたいです園崎さん。しかし、彼はズルをしているわけではありません。ましてや誰が出てはいけないなんてルールはこの試合にはないんですよ」

 マウンドに立つは高校生、打席に立つは小学生。見てのとおりこの試合には年齢制限はないし、もっと言えば男女とも関係なく試合に出ることが出来る。いわば学校対決のようなものだ。だからこそ、運動に秀でた人でも苦手な人でも和気あいあいと楽しむべきなんじゃないのか。確かに勝ちに行くことは悪いことじゃないけれども!

「……だからこっちも勝ちに行こうよ。大丈夫、僕たちは今まで頑張って練習してきたじゃないか」

 悟史くんが落ち込んだ雰囲気を盛り上げようと声をかける。……そうだ。こんなときに脳天気に励ましてやるのが私の……魅音の仕事じゃないか。いや、お姉だったらただじゃすまないね。どんな手を使っても勝利を目指すに決まってるさ。それはもちろん私も同じだ。

「そうだよそうだよ! なに落ち込んじゃってるわけ? まだまだ試合はこれからだよ!」

 チームの中にも少しずつ笑顔が戻ってくる。なんだか打てそうな気がしてくる、勝てそうな気がしてくる。その気持ちが大事なのだ。後ろ向いたままバット振ったって当たるものもあたらないんだ。――そして私に出来ることはなんだろうか。あの豪速球に闇雲にバットを振っても当たらないだろう。何かいい策はないだろうか。考えている間に三回は終了した。

 四回表、士気の回復した守りは2アウトを瞬く間に奪い取る。相手がどんなに優れた投手でもこちらが一点リードしている以上守りきればなんとかなる。その間に何か手を考えることが出来れば――

 しかしその考えは甘かった。何も忘れていたわけじゃない、考えたくなかっただけなのだ。ベンチからは「亀田! 亀田!」とコールが挙がる。あの投手が打席に立っていた。いやいやいくら投げるのが上手いからって打つのが上手いとは限らないんじゃ……そんな考えはありえないことなんか、高校野球を毎年見ていればすぐわかることだ……!

 それは必死に積み上げたトランプタワーが無感動に崩れてしまうのに似ていた。もしかしたら空振りしてくれるかも、そんなのが淡い空想だったと気づかされる。あっという間に白球はグラウンドから消えていた。その呆気にとられた顔ににやにやと、白々しい笑いを含んだ目を向けながらホームインする。なんの手も打つ事が出来なかった。同点打を打たれそれで攻撃は止まった。

 とにかく落ち着かなくて座っていられなかった私は捕手、主審の後ろに設けられたバックネットから投球を見つめていた。いっそのこと何かズルをしていてくれたらいいのに。それなら指摘して退場させてやれる。しかしどう見てもこちらで用意されたボールを使い、自らの手で投げている。正攻法で向かってくる以上、こちらがズルするわけにもいかないだろう。

 気づくと打席には悟史くんが立っていた。悟史くんはファイターズの三割打者だ。彼ならこの状況を打開してくれるかもしれない。ベンチからの声援は一層威力を増していた。

「きゃっ……」

 急に目の前にボールが飛んできた気がして目を伏せた。そこで苦笑する。ネットがあるんだからボールがくるわけないのに。……ところで今のボールはなんで飛んできたんだろう。状況を確認しようとすると再びボールがネットを激しく揺らす。悟史くんのバットがボールを捉え、ファールにしていたのだ。それはまさに光明だった。確かにあのボールは並の打者では捉えられないだろう。しかしそれが悟史くんなら出来るのだ。それはつまりまだ負けが決まったわけじゃないということだ!

 しかし、悟史くんもまだ当てるだけが精一杯で前に飛ばすことは難しいようだ。最後、際どい外角の球を見逃してしまい三振。だが明らかにチームの雰囲気が変わっていた。さっきまでの空元気とは違う、裏づけされた自信がみなぎっていた。それは私も同じだった。難攻不落と思われたがどうもそうじゃないらしい。あの投手には隙があるのだ。次の攻撃が待ち遠しい。私はベンチに戻り、自論を監督に話すことにした。そこでこちらの攻撃は終わった。皆が守備に走る。

「あの亀田って投手。どうやら攻略できそうですよ……?」私は興奮を抑えつつ話し始める。「というと、どんな手を使うんでしょうか」

「ああ、いや。い、いつもの私ならここで卑怯な手でも使うんだけど、今日は違うんですよね」

 自分が魅音を名乗っていたことを思い出しあらかじめ断りを入れておく。監督も興味を示した様子で聞きに入る。

「彼の球は確かに速いし、さっきの悟史くんの様子から見ても球が重い。だから使ってくる球種がストレートだけだったら危なかった……実際、悟史くんも当てることが出来ないようだったしね」

「というとつまり、彼は変化球を混ぜてきていて……それが逆に狙い球だと?」

「はい。彼は見たところカーブとフォークを混ぜてきているようです。だが未完成なんでしょう。あまり変化していないようですし、速度は落ちるは球威は落ちるは。そのうえ裏で見てたんですが、変化球を投げるときのクセも丸わかりでした」

「はあ……そこまでわかっていたとは。すごいですね……しかしなぜそんな球を使ってくるんでしょうか」

「だって誰も打てないんですもの。さっきやっと悟史くんがファールにしてたぐらいですから、使ってる本人、まだわかってないんでしょう。自分の未熟さに」

 ここで監督はしばし思案すると、再度質問して返す。

「確かにその変化球に脆弱性があることはわかりました。しかし、それを打ってヒットにするというのは別問題じゃないでしょうか。第一、実際悟史くんを除いてほとんどバットに当てられないのが現状ですし……」

 それは一理ある。しかし今までは目隠ししたままバットを振っているような状態だったわけで、相手の特徴がつかめればきっと現状は変わってくるはずだ。

「それは言うまでもなく威圧感ってやつでしょう。ファーストインプレッションが強烈でしたからね。それに見慣れない球筋に、過剰に反応しているせいもあるかもしれません。しかし、落ち着けば……きっと打てます」

 私はさきほどの打席で自信を持てた。確かにいくらわかっていても打てない子もいるだろうが、あらかじめ弱点が知らされているか否かは大きな違いを持つ。

 そこで相手の攻撃が終了したようでみんながベンチに帰ってくる。なんとか2ヒットで抑えたようでほっとした様子のようだ。さあ、ここから反撃開始ですよ。私はさきほど監督と話していたことを皆の前で話した。

 きっと亀田をモンスターかなにかとでも思っていたのだろう。相手の特徴を挙げるたびに、おお! と歓喜の声があがった。もちろん、これがわかったところで相手のストレートには手も足も出ないわけだから、依然として不利なわけだが、それでも時折投げられる甘い球を打てばいいんだとわかった彼らの表情は明るかった。

 五回裏、こちらの変化などにもちろん気づくはずもなく、澄ました顔をして亀田はマウンドにあがる。彼は大きく振りかぶりキャッチャーミットを見つめる。それはさながら弓兵により張り詰められた弓、そしてそこから放たれる白球は撃たれた矢だった。戦場において武士が弓矢の標的とされていると気づいたとき、誰がその頼りない刀で弾こうと考えるだろうか。彼の直球にはそれを思わせる火力が備わっていた。だから気づかない。自分にまさか弱点があるなんて気づこうともしないのだ。

 それは久しく聞いていなかった快音だった。皮肉にもピッチャー強襲の当たりは亀田の股を通り過ぎセンター前に転がっていった。ベンチから歓声があがる、読みどおり、甘いカーブを持っていったようだ。

 その後もヒットでないにしろ確実にバットがあたり始めてきていた。亀田は調子を崩したのかと何度か腕を回しているようだ。やはり変化球が狙われていることには気づいていない。私をなめてるからこうなるんですよ。私は胸をはった。そこでチェンジになるも、確実に流れはこちらに移りはじめていた。

 六回、さすがに疲れの見え始めた投手が交代になる。もちろん亀田の体力はまだまだ尽きることはないんだろうが。さきほどの投手のような切れはないにしろ、その長身から繰り出される高さあるボールは打者をかく乱させるにぴったりなようだ。さすがにいつまでも通用するわけではないが、その間にこちらが点を入れればいい。ノーヒットに抑えこちらの攻撃だ。

 初球は確実にストレートが来る、思わせぶりに見送ってやればいい。その次が勝負だ。私の読みどおり次々と前に打球が飛ぶ、クリーンナップまで回せることが出来ればこの流れを悟史くんに託すことが出来る……!

 最高のチャンスだった。2アウトながらランナーは二三塁。落ち着いて打てば一気に点差が付けられるところ。

「悟史くん! 頑張って!」

 私だけじゃない。ベンチの皆も同じ心境なのだ。必死にエールをおくる。ここで一発がほしい……。

 打席には悟史くんが立っていた。ファイターズの誇る三割打者であり、最初に亀田攻略の糸口を見せてくれた悟史くんなら、そしてピンチに私を助けに来てくれた悟史くんなら……!

 バットが何度か空を切った。そこでふと気がついた。ああ……そういえば悟史くんってチャンスに人一倍弱いんだった。ああ、今更ながら私は猛省した。これまでのチャンスはみんなの努力によって勝ち取ったものだ。それに全員の期待を悟史くん一人に背負わせるのは荷が重すぎるじゃないか。そこで皆も気づいたように声援が止まっていく。そしてうなだれながら帰ってくる悟史くんの姿があった。弱々しく笑うと情けなさそうに言った――ごめんね。

「うーん。やはりチャンスで打てませんねえ。まあまだこれからですよ」

 監督がからからと笑いながら言う。チームメイトも悟史くんを元気付けるよう声をかけていたが、やはり相当堪えたらしい、非常に残念そうだ。

「また機会が巡ってくるから。そのときは頑張ってよ!」

 私も魅音として励ますが、効果の程は定かではない。皆が守備に向かう。私はまた考える――私に出来ることはないか。

 とはいえ、もう決定的な手が残されているようには思えなかった。それでもなにか、自信の裏づけになるような策がほしい。少なくともさきほどの失態のせいで負けてしまったと、悟史くんに落ち込んでほしくなかった。私はグラウンドで必死にボールを追いかけるみんなを眺めていた。

 するとある光景が飛び込んできた。タイタンズの打者がショートゴロを打つとそれが予想外の場所に跳ねてエラーしてしまった。慌てて一塁に送球するもセーフになってしまう。

「ああ……少しグラウンドが荒れてきましたかねえ。まあ雨の後ですし仕方ありませんね」

 そうだ。昨日は雨が降り、地面は水気を多く含んでいる。乾燥した土なら巻き上げようとも元に戻るが、水気の含んだ土は固まってしまい、今のようなエラーの原因にもなる。そういえば外野にもたくさん水溜りがあったっけ……試合前にはちゃんと整地したグラウンドが試合を進行するにしたがってまた荒れ始めているんだ。

「これ使える……!」

 確かに荒れたグラウンドは今のように自らに害を与えることもある。しかし、それはあくまで偶然であってそう何度も起こることではない。では、それを意図的にこちらで起こしてやったらどうだろうか。エラーを起こしてしまうのではない。こちらから起こさせることができれば!

「本当に園崎さんの頭の回転速度にはかないませんね……しかし、それが可能なら使う手はないでしょう」

 そのときいやな音が聞こえた。どうもセンター越えの大きなあたりが出たようだ。それで一点失ってしまう。これで3対2だ。もうここで踏ん張るしかない。ベンチに帰ってきたみんなを集める。

 再び作戦会議に入る。前回のこともある。みんなが私の言葉を注意深く聞いていたようだ。

 とはいえ、たいした作戦じゃない。とにかく叩きつけるように打つ。私から具体的に指示した内容はこれだけだ。しかし、みんなもグラウンドの乱れを実感し始めていたのだろう。作戦には同意してくれた。

「きっとエラーが目立ち始めたら整地せざるをえなくなる。それまでがチャンスだからね!」再び皆が決起した。七回裏の攻撃が始まる。

 最初に言ったことを忘れず、慎重にボールを選球していく。この頃になると亀田の豪速球にも慣れ始めてきたようで、打席に立つみんなも怖くなくなってきたようだ。そして狙い球の変化球が来たら――叩きつけるように――バットを振る。

 無様にセカンド前にボールは転がった。いい当たりとは決して言えない、でも走る。相手がミスするかもしれない、そのミスを誘うのは焦りだ。最後まで諦めない姿勢こそが相手のミスを誘発するのだ。

 グラブをゆっくり近づける……が、当然まっすぐ転がってくるだろうと思った球が止まった。来ない、こっちに来ない……! もうランナーは一塁に迫っている、拾わないと拾わないと……そこでボールを掴み損じてしまう。出塁した。信念で勝ち取った出塁だ!

「ここで盗塁をしてもらいます……ずっと捕手を見ていたのですが、どうも制球力に欠けると思うんです。バッターにはバントの構えをして守備をかく乱してもらいましょう」

 そっと監督が私に言う。問題ないと思う。私は「いいと思うよ」というと監督は頷いてサインを送った。

 打者は指示通りバントの構え、あわてて守備が形を崩す。走者が走るのを見ていた捕手が投げようとするも二塁はなんとがら空きだった。どうも向こうは勝ちムードいっぱいらしい。とっさの判断力に欠けている様だ。

 そしてまたもやゴロを打つ。今度はアウトにされたがそれでも走者を三塁に送ることが出来た。同点のチャンスだ。内野はスクイズを警戒して前進している。ならば――打ってやればいいだけだ。

 叩きつけたボールは前進しすぎた亀田の頭上を越えていく。ショートがカバーに回るもここでまたバウンドが変化――地面の泥濘にはまってバウンドが止まり転がる。これで同点……!

 このあとは上手く打者が繋がらず3アウトとなってしまった。だがみんなが思っただろう、まだまだわからない。

 再び守備に飛び出していくみんなを見送ると私はふうと溜息をついた。少々疲れたようだ。監督が隣でくすくす笑う。

「お疲れ様です。今日は園崎さん、よく指示を飛ばしてくれますね。マネージャーじゃなくて監督をやるべきなんじゃないですか?」

「せっかくの試合を邪魔されたのに腹が立ったっていうのもありますし、さっき悟史くんがミスしちゃったんで落ち込ませたくないなって思っただけですよ。あ……それに勝手にマネージャーにしないでくださいよ」

 私は監督の他愛もない話に頬を緩めた。気を抜いていたというのが正直なところだ。みんなはどうだろうか。もしかしたら私につられて少々油断していたかもしれない。だからこそまたしてもやられたときにはぐうの音も出なかった。

「あっ……!」

 ホームランだった。しかも打者はまたしても亀田だった。そうだ、打撃に関しては何の解決策もなかったっけ。私はただ適当な策を講じた振りをして安心したかっただけなのかもしれない。前回ホームランを打たれておきながら何の策も講じないなんて愚の骨頂じゃないか! 8回表、ここにきての一点はあまりにも大き過ぎる。私が頭をかかえていると監督が慌てたように立ち上がった。

「大丈夫でしょうか……」

 どうも打球を追いかけていたセンターの子が転んでしまったようだ。グラウンドは全員使うものだ。必ずしも乱れがこちらの有利にばかり運ぶわけじゃない。あの子には悪いことをしてしまった……私は自己嫌悪に陥る。しかし監督が肩を叩く。

「あれは園崎さんの責任じゃないですよ。頭上の球に気を取られていて転んでしまうのはよくあることです」

「……すみません。ありがとうございます」

 そしてチェンジ。こちら側の攻撃なのだが、その前にグラウンドの整備を希望した。さすがにけが人が出てしまってはいけない。さっきのが仮に注意不足のせいでもこれから起こるとも限らないしね。これでさきほどの策は通じなくなったわけだ。私がいよいよピンチだなと思ったのが伝わったのか、初球から手を出したりと打線もボロボロで最終回を迎える。

 向こうは幸運にも下位打線からのスタートだ。慎重に守ればこれ以上被害は出ないだろう。案の定守備もグラウンドの整地のおかげか安定し、1ヒットで抑える。そして九回裏に移る。みんながベンチに戻ってきた。

「今日はすごい盛り上がってるね。こんないい試合なかなかないんじゃないかな」

 ――悟史くんだった。彼は一呼吸置くと、俯きながら「ごめんね」という。さきほどのミスのことだ。

「もう過ぎたことは仕方ないよ! まだ回ってくる可能性あるんだからそのとき頑張ってよね」

「……うん。もうここまできたらやるしかないよね。こんなにチームが団結してるんだ。勝たなきゃおかしいもんね」

 彼の横顔はさっきと違って晴々としていた。迷いが吹っ切れたのだろうか。私は少し安心する。

「期待してるからね!」

 私がばしばし背中を叩くと「まかせてよ」と笑いながら言った。――頑張ってね、悟史くん。

 作戦は変更した。叩きつける必要がなくなったからだ。もちろん、大振りや、アッパースイングで大きい当たりを狙うのは危険だが、それをわざわざ説明する必要もないだろう。後は悔いの残らぬよう全力を尽くすだけだ。

 一人目、今までの成績は残念ながらノーヒットだ。小学生の子だった。どうも今回が初試合で、両親も見に来てくれているらしく悔しがっていた。……こんなことになってしまってかわいそうだと思う。そのうえ負けてしまうなんてことになればその悲しみもなおさらだろう。なんとかしてあげたいが……当然、高校生の球など打てず三振。私はそこで隣を見ると男の子が泣いていた。

 それは先ほど転んだセンターの子だった。どうも捻挫していたのを隠していたようだ。監督は諦めるようにいうが彼は嫌だという。というのも、雛見沢ファイターズに控え選手はいない。彼が出られないということはそれで負けが決定してしまうのだ。そんな終わり方をするぐらいなら出たいといっているらしかった。しかし、その痛々しく腫れた患部を見る限り安静にしておくべきだろう。

 ――私に出来ることはなんだろうか。今ならわかる。私は立ちあがるとヘルメットをかぶった。

「監督。代打お願いしますねー。がっつーんと大きいの打っちゃうからねえ。みんなも応援よろしく!」

「え、あ。園崎さん!」

 聞けばお姉は過去に助っ人と称して飛び入り参加したことがあると言っていた気がする。選手が足りなくなったなら私が助っ人として立ち上がるのは至極全うなことだった。これを打てば悟史くんにつなげるかもしれない。

「魅音さんならきっとヒット打ってくれますよ!」そんな歓声があがる。……お姉はみんなに頼りにされてるんだな。ならここは打って顔立ててあげなくちゃあねえ。歓声を背負いながら打席に立つ。

「さあ! どっからでもかかってきなさいな」

「ククク……よう。大ピンチヒッター様よ。期待してるぜ?」

 亀田は大きく振りかぶる。もちろんストレートだ。私は素直に見送る。すさまじい迫力だった。……みんなこんな球と戦ってきたのか……体中が熱くなる。ここは打って目に物見せてやる必要がありそうだ。次はなんだろうか。

 大きく振りかぶり……少し手元を見た。あのクセは確かフォークだ。とはいえほとんど落ちないし若干遅い……ねらい目だ。私は一呼吸すると足を踏み込みッ――打つ!

 久しく覚えていなかった感触だったためびっくりした。強烈な金属音を立てながらボールは水平に飛ぶとセンター前まで飛んでいった。私は一塁まで駆ける。心音がどんどん胸を叩くように響いた。そこでほっとする、とにかく自分に出来ることは精一杯した。あとはみんなが頑張るのを見守るだけだ。

 次のバッターは二安打の好成績だが、万が一凡打を打てばダブルプレイで終わってしまう。初球をセオリーどおり見送るが、二球目でバットを振るも――当たらない。苦境に立たされてしまった。運悪く2ストライク、三球目は非常にきまぐれで私もなにが来るかわかりかねるところだ。亀田はセットポジションから鋭くボールを投げる――ストレートだ。三振に終わった。

 最終回、そして2アウト。最後のバッターは奇しくも悟史くんだった。本来ならみんなの興奮も最高潮へといいたいところだが、前回の打席のこともある。チャンスがピンチになってしまうのが悟史くんの弱点なのだ。どうなるだろう。

 だが私はさっきの言葉を信じようと思う。いや、仲間が信じてあげずにどうするっていうのか。大きな声援が飛ぶ。悟史くんはゆっくりと打席に入った。悟史くんはわずかにこちらに視線を向ける。私が頷くと彼はいつもの最高の笑顔で返してくれた。

 亀田は落ち着いた様子でセットポジションを取る。こちらには意識は向いてないようだ。悟史くんとの対決を楽しんでいるように見えた。私はその様子を黙って見届けようと思う。もう盗塁の必要もないだろう、そんな小手先の技はこの場には必要ないのだ。

 一球目、いつものセオリーならストレートだった。――だが違う、あれは……カーブだろうか。緩やかな線を描きながら白球はミットに向かって進む。悟史くんはどう出るだろうか。わずかに左足を上げるが……見送る。ボールだった。

 二球目、もうセオリーは通用しないだろう。いや、そんなものが通じないのは悟史くんが打席に立ったときからわかっていたことだ。体に力が入る。悟史くんが砂を巻き上げる音が聞こえる――グラブが歪み、亀田の腕は伸縮を激しく起こしながら白球をはじき出す。紛れもないストレート! 悟史くんはそれを見送る。1ストライク1ボール。

 声援が馬鹿に大きく聞こえる。ああ、どうなってるんだ……自分の心臓の音までうるさくて悟史くんの心臓の音まで聞こえてきて――亀田の投げた三球目はストレート。手が出ない。追い込まれた。

 そのとき聞こえた。確かに悟史くんのまかせてという澄んだ声が聞こえた――気づくとさっきまでうるさかった声援も自分の心音も聞こえなくて、ゆっくりとミットに向かう白球の描く線を目で追っていた……

 気持ちのいい金属音がグラウンドに響き渡る。気づくと悟史くんは私の後ろにいた。私は泣きそうな、笑いだしそうなへんな顔をしていたと思う。

「さあ、二塁はあっちだよ」

 何がなんだかわからなくて、私は「は、はい!」と大声を出してしまうと後ろで悟史くんがくすくす笑う。

 四球目、私はそのまっすぐな軌道をみてストレートだとわかり愕然した。しかし、悟史くんはそれを見事弾き返したのだ。ミットに叩き込まれるはずのその力はバットによりグラウンドの向こうに飛ばされてしまったのだった。

 私たちは二人順にホームを踏む。ツーランホームラン、いやサヨナラホームランと言うべきだろう。私たちは勝ったのだ。急に安心してしまって体の力が抜けてしまった。それを悟史くんに支えられる……なんだか情けないというか恥ずかしいというかうれしいというか――ってそこでなんで頭を撫でる!

「あはは! ほんと、勝ててよかったね。魅音のおかげだよ」

「わ、わかりましたから……その、手を……も、もう」

 みんなに向かえられ、悟史くんの胴上げだ。悟史くんは勘弁してよと笑っていたがまんざらでもないようだ。万歳の掛け声と共に体が宙を舞う。私はそれがおかしくて涙が出るまで笑った。

 するとみんなが私に集まってくる……って私もですか! ま、まあ、こんなのも悪くないですね。仕方ありません、落さないでくださいよ? 私は何度も高く空を舞った。

 昭和57年、――もうすぐひぐらしのなく季節がやってくる。

 

                                                           完 

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